派手な女性関係で有名なピカソ、個性豊かな愛人たちや最後の妻ジャクリーヌのことは語られても、最初の妻オルガ・コクロヴァについてはそれほど語られることがない。

しかし、1918年にから始まるピカソの「新古典主義の時代」に大きな影響を与えたのがオルガであり、ピカソが誰よりも多くその肖像画を描いたのもオルガなのである。

研究者に語られることもなく、彼女に関する著作さえも出版されてはいないが、パリ国立ピカソ美術館では9月3日まで「オルガ・ピカソ」と名づけた美術展を開催している。

オルガがいなければ、ピカソたりえなかった

展示会のキュレーターである美術史家、ホアキン・ピサロはつぎのように述べている。ちなみに、ホアキン・ピサロは印象派の画家カミーユ・ピサロの曾孫に当たる。

「オルガは、ピカソにとってミューズや妻という肩書きでは収らないほど大きな存在であった。オルガがいなければ、ピカソはピカソたりえなかったであろう。」

ピカソとオルガ

ピカソは、友人で芸術家のジャン・コクトーに誘われて鑑賞したロシア・バレエの舞台でオルガと出会う。二人は、一目惚れであったとも伝えられている。

1918年に二人が結婚したとき、ピカソは37才、オルガは27才。それ以降、ピカソはオルガと二人のあいだに生まれた息子パブロの肖像画を大量に描くことになる。

1891年、ウクライナにロシアの貴族の娘として生まれたオルガは、故国に残してきた家族や親戚に心を残していたという。ピカソは妻のこの心情をくみ、オルガがロシアの家族に食料品や衣料を送り続けることを認めていた。その荷物は、一度として無傷のままオルガの家族に届くことはなかったし、ピカソはオルガの故国の家族と実際に会う機会もなかった。

しかし、残された手紙などを見ると、この時期のピカソは後年の横暴な振舞が信じられないほど、オルガにとっては「良き夫」であったのである。

さらに、このピカソの「寛容」は宗教にも及んだ。ピカソはスペイン生まれのカトリック教徒であったが、オルガはロシア正教会の信徒である。パリのダル通りにあったロシア正教の教会へのオルガの出入りを、ピカソはとがめもしなかったという。

忘れられたオルガ

1927年に、ピカソは28才年下のマリー・テレーズ・ワルテルに出会い彼女に溺れ、夫婦の仲は破綻していく。二人の別居は1935年、マリー・テレーズがピカソの娘マヤを出産したのがきっかけであった

その後も、ピカソには複数の愛人や妻の出入りがあり、最初の妻オルガの存在は忘れられていく。しかし、残された多くのオルガの肖像画や手紙から、ピカソに最も影響を与えた女性として今回、ピカソ美術館ではオルガに関わる美術展の開催を決定した。

物憂げにこちらを見つめるオルガの肖像画や写真、手紙など、貴重な資料を展示会では鑑賞できる。

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