基本情報

アルフォンス・ミュシャ(1860年 – 1939年)は、アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナーである。1860年、ミュシャはオーストリア帝国領 モラヴィアのイヴァンチツェに生まれた。1879年ウィーンへ移住し、舞台美術などを手がける工房で助手として働き、美術への技術や教養を深めていったが、1881年に雇用主のビジネスが火事に遭い、ミュシャも失業してしまう。ミュシャはモラヴィアへ戻り、クーエン・ブラシ伯爵と出会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなった。エゴン伯爵の援助を受け、1884年からミュンヘン美術学校に入学し、古典的な写実的描写表現を会得。1887年に同校を卒業後、パリへ向かい、アカデミー・ジュリアンで勉強を続けた。学業に加え、雑誌や広告イラストを手がける印刷所でも働いていた。そんな中、1894年に急遽、人気舞台女優サラ・ベルナール出演の演劇「ジスモンダ」のポスターを手がけることになった。この作品が大反響を呼び、一夜にしてミュシャはアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を確立することになった。その後もミュシャはサラ・ベルナールの演劇のポスターを担当し、煙草用巻紙、シャンパンなどの広告イラストやポスター、書籍の挿絵など幅広く手がけた。1900年パリで開催された万国博覧会で、ミュシャ・スタイルは国際的に認知され、ボスニア・ヘルツェゴビナとオーストリアのパビリオンの装飾を手がけた。1910年、故郷チェコへ戻り、彼の代表的な絵画作品である「スラブ叙事詩」を制作し始め、完成までに20年かかったと言われている。1900年代は、政治的に激動の時代であり、1918年オーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、新国家の紙幣や切手、国章のデザインがミュシャへ依頼された。その後、1939年ナチスドイツによって、チェコスロバキア共和国が解体されると、ミュシャは反ナチスと見なされ逮捕される。厳しい尋問を受けたミュシャは、当時78歳であり、その後間もなく息を引き取った。

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