作品概要
《夜警(フランス・バニング・コック隊長の市警団)》は、画家のレンブラント・ファン・レインによって制作された作品。制作年は1642年から1642年で、アムステルダム国立美術館に所蔵されている。

レンブラント・ファン・レインによって描かれた《夜警》は、集団肖像画であり、キャンバスは379.5cm×453.5cmとレンブラント作品の中で最も大きい。
17世紀オランダ黄金期を代表する絵画の一つとされ、「光の魔術師」や「光と闇の画家」と称されたレンブラントの最高傑作。ダヴィンチの《モナ・リザ》、ベラスケスの《ラス・メニーナス》と並んで世界三大絵画と称される。
《夜警》というタイトル
もともとは《フランス・バン・コック隊長とウィレム・ファン・ラウデンブルフ副隊長の一団》と呼ばれていた本作は、夜の景色を描いた作品ではない。
18世紀末に、この肖像画は夜に描かれたものだという誤った見解から、誤った画題がつけられてしまい、そのまま広まることになった。実際に、この柔らかい光は何層ものニス塗りによって暗くなってしまったもので、描かれた当時は明るい色使いであった。
遅くとも1946-47年に《夜警》が洗浄された時には、太陽の光が左上から差し込んでおり、このシーンは昼間を描いたものであることが分かっていた。1980年にさらなる洗浄作業が施され、色のトーンが本来明るいことは確実となった。
描かれた市民自警団
画面上の強壮な男たちは、暴動を収めて街を守る為の市民自警団であり、「火縄銃手組合」(実際にはマスケット銃)と呼ばれていた。
中央で黒い服を着ているのはフランス・バン二ング・コック隊長。その隣にいるのはウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長である。後ろには彼らが率いる武装した16人の団員が描かれている。
これらの計18名で、当時射撃場として使用していた火縄銃手組合集会所(クロフェニールスドゥーレン)の新設に伴い、メインホールに飾る6枚の巨大な集団肖像画を画家達に依頼した。レンブラントが担当した《夜警》はその内の1枚である。
主要人物
レンブラントの光と影の熟達を明示するように、彼は全体の中で3人のキーとなる人物に焦点を当てていた。
それは真ん中の2人の隊員(オリジナルの題目にある2人)と、真ん中左後ろの小さな少女である。彼らの後ろでは、旗手であるヤン・フィッシェル・コーネリッセンによって軍旗が掲げられている。
フランス・バニング・コック(1605-55)は黒い服に赤い飾り帯を身にまとっている。副隊長のウィレム・ファン・ラウテンブルフは淡い黄色の服に白い飾り帯をつけ、式典用の槍を持っている。
バニング・コックの左後ろに配置された少女は、マスコット的に描かれている。彼女は組合の高価な盃を持っており、彼女のガードルには、マスケット銃兵の象徴である死んだ鶏と鶏の爪がかかっている。この鶏は、隊長の名前をもじって暗示しているとも言われる。
それ以外の人物
少女の前にいる男性はこれもまたマスケット銃兵または砲兵の象徴であるオークの葉のあしらわれた兜をかぶっている。
何人かはそれぞれの武器を装備している。1人はマスケット銃から火薬を銃に詰めており、また副隊長の隣の1人は、銃に耳を傾けている。ヘルメットを被った、
バニング・コックのすぐ後ろにいる3人目は、銃を空気中に撃っているように見える。18人が絵画の効果のため補助的な役割として描かれているのに対し、数人はその他の人より明らかにはっきりと描かれている。
これらの人物を補助的に描くことで、レンブラントは人物描写の技能と他の技法のすべてを表現することができた。
市民自警団の歴史的役割
16世紀のオランダ独立戦争の最中に、フランダースでのスペイン軍の侵略から町を守るため、各地で市民軍が構成された。
しかし、レンブラントの時代には、それらの市民軍は国境地域を除いて軍事的な役割はなく、単純に象徴的なものであった。レンブラントの絵画の中の軍は射撃試合に参加するために行進しているようにさえ見える。
過去の幻想や当時の歴史的イベントなどさまざまな解釈がされているが、今ではすべてくつがえされた。この肖像画は、ただただ純粋に「武装した市民」をテーマとした肖像画であると思われる。
支払い
組合には、当時およそ200人が参加しており、このうち120人が肖像画への参加を希望した。レンブラントの《夜警》以外にも、6つの分隊ごとに6人の画家が作品を描いた。
《夜警》には、肖像画1人あたり平均100ギルダーで、計1600ギルダーが支払われたとされる。1658年にレンブラントが起こした金融事件に審査が入ったときにレンブラントの味方として証拠を示した2人によると、肖像画のモデルたちは自分たちを目立って描いてもらうために平均して100ギルダー(オランダの旧通貨単位)を払ったとのことで、レンブラントは計1,600ギルダーを得たとのことである。
光と影のドラマチックな作品
登場人物全員がそれぞれに役割に応じ、行進に向けて隊形を作ろうとしている様子、また彼らそれぞれが生命力に満ちている様子を、強調された光と影によって大胆な構図とともにドラマチックに表現した。中央の隊長と副隊長の左に見える光に照らされた女性は、自警団のシンボルである。
彼女のベルト部分にぶら下がった鶏の爪は火縄銃手の象徴で、左手には組合の儀式用の角の杯を持っている。自警団18人以外で描かれている登場人物は構図のバランスをとる為にレンブラントによって付け加えられたものである。
高い技術面の評価
レンブラントは1つの表現方法に縛られるのではなく、幾つかの表現方法を作品に用いた。
コック隊長の手があたかも絵の外に飛び出してくるような表現、登場人物一人一人の個性的な表情や動き、繊細に描かれた部分のみでなく大胆に塗り重ねられた部分があることなど、技術面においても非常に優れた作品と言える。
至って平凡な題目をダイナミックな芸術作品にしたことで、この肖像画は大きな成功作であると当時から高い評価を得ていた。それまでのバロック時代の軍隊画は、ただ隊員が整列していたり、テーブルを囲んで規律正しく着席している様子が描かれていたためだ。
レンブラントが描いた軍隊は、華麗な装備や、今にも進軍し始めそうな出動できる準備が整っており、突出した躍動感を備えている。
市民軍肖像画のエポックメイキング
《夜警》は、市民軍肖像画という退屈なジャンルを興味深い作品へと昇華させた。
19世紀の評論家が主張していたように、この作品でレンブラントは、目が眩むほど素晴らしい発想力と豪華さ、ただの出来事を誇張して描き、また肖像画とジャンルペインティングの融合など素晴らしい仕事を成し遂げた。
これはかつて革命的であり、市民肖像画の最後の作品であったが、少し後にはこうした肖像画に対する需要はなくなり、画家たちはもっと静かな、組合肖像画の退屈なシーンや、病院長の肖像画などを描くようになった(彼の斬新な市民軍肖像画と彼の有名な『テュルプ博士の解剖学講座(1632、マウリッツハイス美術館)』のような「解剖肖像画」を比べる)。
さらに言うと、レンブラントはそんな華やかな、もしくはとてもバロックらしい絵画を描くことは二度となかった。しかしながら、確実に言えることは当時画家としてとても成功していたし、彼のヨーロッパでの最も優秀な肖像画家としての地位が確立されていたということである。
不満
当時からの高い評価にもかかわらず、出来上がった作品に対して、当の組合員たちは不満を抱いたとも言われる。それは、レンブラントが作品全体の効果を重視して、それぞれが支払った費用の大小に合わせて、肖像画における位置・大きさなどが決められる慣習を無視したためだ。
ところがこれは伝承に過ぎず、これを裏付ける史料などは存在していない。組合員たちに作品が受け入れられなかったことや、レンブラントの当時の評判が落ちた要因だという話は、1640年代?1650年代に実際にレンブラントの評判は下がったが、概ね19世紀に書かれたロマンティック小説から生まれた創作である。
来歴と修復
レンブラントの《夜警》は、何度か損傷にさらされている。1度は、建築家による作品の切り取りだ。作品は1715年頃にアムステルダム市庁舎に移ったあと、1885年にアムステルダム国立美術館の前進となる王立美術館に移されている。
しかしこの際、展示するにはサイズが大きすぎたため、作品の周囲、なかでも左側が大きく切り取られた。具体的には、左側背景の2人と1人の赤ん坊の部分が60cmほど切り取られており、他の3辺も左側ほどではないが、トリミングされている。
これによって構図がアンバランスになっており(後ろのアーチは元々もっと真ん中寄りであった)、人物たちが制限された範囲に詰まりすぎた印象を与えている。
また1911年1月13日には失業者がナイフで傷をつけ、1975年9月14日には精神不安定だった暴漢が、おなじくナイフで大きな損傷をつけた。フランス・バニング・コック隊長の下半身と副官ヴィレム・ファン・ライテンブルフの右側部分が大きく傷つけられたこの事件は、大規模な修復作業を余儀なくされた。
背景に何人も描かれているがそれらがややぼやけていて彩度が低く補助的であることから、絵全体を観るとバニングコック隊長とその副隊長がはっきり写っているように感じる
2019年8月22日 3:08 pm, ID 14182