作品概要
《モナ・リザ》は、画家のレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された作品。制作年は1503年から1517年で、ルーヴル美術館に所蔵されている。

世界で最も有名な絵画として知られ、巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作の1つ。60年前に10億ドルを超える価値が付けられ、現在では価格にすれば途方のない金額になると言われる本作は、ルーブル美術館に所蔵されている。
盛期ルネサンス美術の傑作であり、イタリアでは《ラ・ジョコンダ》として、フランスでは《ラ・ジャコンデ》として知られている。
タイトル
世界で最も有名な絵画であるにもかかわらず、他のレオナルドの作品と同じく《モナ・リザ》には、サインも日付も記されていない。
このタイトルは16世紀に、マニエリスムの画家であり伝記作家のジョルジオ・ヴァサーリ(1511-74)によって著されたレオナルドの伝記からきている。その伝記は1550年頃出版されたもので、フィレンツェの著名な人物であり、裕福なシルクの商人であったフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リサ・ジェラルディーニの肖像画を描いたことが記されている。
こうして本作には、《モナ・リザ》、あるいは《ラ・ジョコンダ(La Gioconda)》や《ラ・ジャコンデ(La Joconde)》というタイトルがつけられた。
ヴァサーリによると、制作中にレオナルドは音楽家やトルバドゥールを雇い、リサを楽しませるようにしていたそうで、それが彼女の謎めいた笑みの理由かもしれない。
いつものように、レオナルドは絵画制作に非常に手間取っており、特にモデルの手の部分には時間が掛かったようで、この作品にさらに20年かけて取り組んだ。
独特の距離感
本作は、モデルが直立に斜めを向きながら椅子に座っており、彼女の顔と胸は少しだけ鑑賞者の方を向いている:。これは、ピラミッドのイメージに由来したポーズであると言われ、モデルに独特の距離感を生み出している。
彼女の左腕は椅子のひじ掛けにリラックスして置かれており、正面で交差した右側の手を握っている。少しだけ守るような腕の配置、またひじ掛けも同様に、座っている描写体と鑑賞者の距離感を演出している。
背景の風景は空気遠近法が使われており、スモーキーな青と、鮮明には輪郭が見えない。細部には、右側に高い岩の層と、下部の低い平地が左の方に広がっている不均衡さが見られ、意味ありげな深みが醸し出されている。この不均衡さが、少しだけ超現実的な雰囲気を作品にプラスしている。
モデルの眉
また《モナ・リ》の超現実的な特徴として、彼女の眉毛とまつげがないことが挙げられる。
これは調査によると、元々は描かれていたようで、作者の故意のものではない。この顔の部分に使われた絵の具が薄れた可能性、もしくは偶然にも洗浄作業の過程で消されてしまった可能性がある。
スフマート法の傑作
《モナ・リザ》は、レオナルドの類まれな技術を示す作品として知られているが、具体的には彼の熟練したスフマート法の技術があげられる。
スフマート法は、深みやボリューム、モデルの形を強調するために、色彩の透明な層を上塗りする技法で、レオナルドがこの技術を生み出したと言われている。《モナ・リザ》には、とても繊細な色調のグラデーションが使用されており、ある色から他の色への変遷に気づかないほどである。
本作を通して明らかであるのは、レオナルドのスフマート法がリサ・ジェラルディーニの顔の柔らかい輪郭と目の周り、口元に目立って使われていたことである。その技法はすでに《岩窟の聖母》に見られるが、《モナ・リザ》によって名声は不動のものとなった。
不思議な静寂
《モナ・リザ》の一般的な印象としては、不思議な空気に富んだ静穏である。その静穏さは、ぼかした色の配色や、落ち着いたスフマートの色調、また描写体のピラミッド型の姿勢と、控えめな着衣の調和からきている。
この印象は、彼女の謎めいたほほえみと、モデルの視線が右側の鑑賞者に向けられていること、そして彼女の手が微妙に本物らしくなく、生命力を感じないこと、すなわちその手が別の身体のものであるかのような点から、より高い効果を生み出している。
来歴
本作は、1503年に制作が始まり、完成までに3年から4年かかっている。
完成後もレオナルドの手元に置かれ、フランスのフランソワ1世の招きによりレオナルドと共にアンボワーズ城近くのクルーの館へ移り、その後1510年頃にフランソワ1世によって4000エキュで買い上げられ、フォンテーヌブロー宮殿に留め置かれたとされる。
さらにその後、ルイ14世によってヴェルサイユ宮殿に移され、フランス革命後には現在の展示場所であるルーヴル美術館に落ち着いた。ただしその後もナポレオン・ボナパルトが滞在するテュイルリー宮殿を飾る目的でルーブルにあったほかの絵と同じく使用されたり、普仏戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦の際にフランス国内の安全な場所に移されたりしている。
1956年頃には酸による浸食で下部に著しい損壊が生じ、数ヶ月後には石を投げつけられたことから、『モナ・リザ』は現在のような防弾ガラス付き防犯ケースに収められた。また絵は木の板に描かれているためケース内部は湿度、気温ともに管理されるようになった。
1962年、アメリカ合衆国へと貸し出され、ニューヨークとワシントンD.C.で展示された。日本における展示は1974年に東京・上野の東京国立博物館で行われ、その後モスクワへ貸し出されている。
主題
すでに述べたように、《モナ・リザ》のモデルがフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リサ・ジェラルディーニであると述べたのは、ジョルジョ・ヴァザーリである。
彼の『画家・彫刻家・建築家列伝』(1550年)の中で、フォンテーヌブロー宮殿にある《モナ・リザ》について、モデルが彼女であることを示している。
「モナ(monna)」はイタリア語で「婦人」であり、「リザ」はエリザベッタの愛称である。イタリア・フランス語それぞれの名称は、ジョコンドから来ているが、17世紀のフォンテーヌブロー宮殿の財産目録には「紗のベールをまとう宮廷婦人」と記されている。
フランチェスコは実在した裕福な人物であり、当時フィレンツェの中で政治的にも権威を持っていた。しかし、その妻であるリザ・デル・ジョコンド(リザ・ゲラルディーニ)については1479年10月16日に生まれ、1495年にフランチェスコと結婚したことは分かっているが、それ以外はほとんど分かっていない。
また当時、肖像画の服装、背景、髪型にはモデルを暗示するモチーフが盛り込まれることが一般的であったにもかかわらず、『モナ・リザ』においては服装や髪型から明確な特徴が得られず、背景にも茫漠とした風景が描かれているのみで、特定の個人を示す暗示がほとんど得られない。
このため20世紀に入って、ヴァザーリの記述に対する疑問から、絵のモデルはジョコンダではないとする異説が複数唱えられてきた。これは以下の不審な点に起因する物である。
(1)レオナルドは通常、描く絵について大量のスケッチやメモを残しているが、この肖像画については晩年まで離さず持ち続けていたにもかかわらず、何の記録も残していない点。
(2)絵を描いた1503年当時、リザは24歳であり、描かれている人物はもっと年齢が高く見える点。フランチェスコの妻と書き記したヴァザーリは1511年の生まれであり、レオナルドにもリザにも会ったことがなかった。また《モナ・リザ》を実際に見てはいないと思われる。
(3)レオナルド存命中の1517年にクルーの館を訪れた人物(ルイジ・ダラゴーナ枢機卿の秘書アントニオ・デ・ベアーティス)が、ジュリアーノ・デ・メディチの依頼によって描かれた「フィレンツェの婦人」の肖像を見たことを記述している。レオナルドは「フィレンツェの貴婦人の役目は、偉大なジュリアーノ・デ・メディチの死と共に終わった」と述べたという。
こうしたことから、20世紀に入ってモデルに関する様々な異説が唱えられるようになり、以下のような人物がモデルとして推定された。
(1)コスタンツァ・ダヴァロス
当時ジュリアーノ・デ・メディチの愛人であったナポリ公妃。ただし1503年当時は45歳で、年齢的に合わないことが明らかである。
イサベラ・ダラゴーナ
ミラノ公妃。年齢が絵と近く、同じ構図の油絵《アラゴンのイザベラの肖像》がある。《アラゴンのイザベラの肖像》はスイスで個人が所有しており、詳細はよく分かっていない。
イザベラ・デステ
マントヴァ侯爵夫人。レオナルドのデッサンに《イザベラ・デステの肖像》がある。このデッサンは横顔であるが衣装、顔、体型が《モナ・リザ》に書かれている女性と非常によく似ているが、そもそも同作がレオナルドの手によるデッサンであるかどうかについては議論がある。
その後もモデルに関する憶測もしくは捏造は止まることを知らず、「この肖像画はフランチェスコ・デル・ジョコンド、つまり男性の肖像画である」という極端な説まで現れた。
レオナルド自身
また、ベル研究所のリリアン・シュワルツ博士は、レオナルドの自画像といわれる絵と、《モナ・リザ》の顔の特徴をデジタル解析した結果に基づき、本作はレオナルドの自画像であるという見解を出した。
両者をコンピュータを用いて合成すると、顔の特徴がほぼ完璧に一致するというのである。しかし同じ画家が描いた絵であれば癖や好みなどから特徴が似通った絵となることも多く、レオナルド自身の「全ての肖像画は画家自身の自画像に通じる」という言葉を裏付けたとも見なすこともでき、必ずしもレオナルドが《モナ・リザ》のモデルであることを証明する物ではなかった。
論争の終止符
そんな中、ドイツのハイデルベルク大学図書館は、2008年1月14日に《モナ・リザ》のモデルが、当初から定説であったフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻・リザであることを裏付ける文献が見つかったことを明らかにした。
1477年に印刷された所蔵古書の欄外に、フィレンツェの役人Agostino Vespucciによる「レオナルドは今、リザ・デル・ジョコンドの肖像を描いている」という書き込みがあったためだ。
この書き込みは1503年10月になされ、レオナルドが《モナ・リザ》を描いていた時期と重なり、ヴァザーリの記事が裏付けられたことになる。
これにより、モデルにまつわる論争には一応終止符が打たれたという見方が有力であるが、それならばなぜすぐに依頼主に引き渡されなかったのかなど、依然として論拠の曖昧さが残っている。
モデルの発掘調査
近年では、モナリザの最も有力なモデルであるフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻・リザの遺骨について、発掘調査がおこなわれている。彼女の遺骨は、フィレンツェにあった聖ウルスラ女子修道院で、1542年に埋葬された可能性が高いとされており、2015年には彼女の可能性がある遺骨が発見された。
現在も調査は続いているが、モナリザのモデルに考古学的な見地からも検討が続いている。
素晴らしい作品ですよね。
2017年12月5日 2:44 pm, ID 11976