作品概要

星月夜(糸杉と村)》は、画家のフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された作品。制作年は1889年から1889年で、ニューヨーク近代美術館に所蔵されている。

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背景

1889年、南フランス・アルル地方において創作活動を行っていたゴッホは、尊敬していたゴーギャンとの芸術感の違いから精神を病んでいき、晩年は幻覚と幻聴に悩まされる。

その結果、彼はフランスのサン=レミ=ド=プロヴァンスにあるカトリック教会の精神病院に入院することとなった。

《星月夜》は、その入院中に、部屋の東側の窓から見えた景色で、日の出の少し前の様子を想像を加えて描いている。ゴッホ作品の特徴ともいえる厚塗りの筆致が月や星の光をぐるぐると旋回するように描画されている。

画面左側にある糸杉は病室の窓から描かれたものであるが、奥に見えている教会や小さな村々はゴッホの想像によって描かれた産物である。

サン・ポール・ド・モゾル修道院

1888年12月23日の耳切り事件の後、ゴッホは1889年5月8日より、自らの意思でサン・ポール・ド・モゾル精神病院に入ることを認めた。

もと修道院だった建物が病院として使われており、サン・ポール・ド・モゾル精神病院は富裕層向けの施設であった。ファン・ゴッホが滞在を始めた当初は施設の半分以上が空室で、二階建ての寝室に加えて一階の部屋もアトリエとして与えられた。

ゴッホはアルルで作品を多く制作しはじめ、精神病院に滞在した年も多作を続けた。この期間、彼は生涯で最も名高い作品の一部を制作した。1889年5月に描かれ現在はJ・ポール・ゲティ美術館に保管されている《アイリス》、1889年9月に描かれ現在はオルセー美術館に保管されている青の自画像の2点が含まれる。

《星月夜》が描かれたのは6月の中旬で、星空を描いた新しいスケッチがあると伝える手紙を弟のテオに書いた6月18日頃である。

主題

本作は、病院の一階にあるアトリエで描かれたが、この絵画が記憶による作品かどうかは定かではない。描かれている景色は、ゴッホの寝室の東側にある窓からの景色だと認識されている。

それは《星月夜》を含めて、ゴッホが少なくとも21回は作品を描いた景色である。「窓からは、鉄の桟で正方形に切り取られた麦畑が見える。その麦畑の上に、栄光に満ちた朝日が昇る。」と、1889年5月23日頃に弟のテオに宛てて書いた手紙において、ゴッホはそう書いている。

糸杉とスケッチ

時間帯や天候の変化で変わるその景色を、ゴッホは様々に描いた。

描いたのは、日の出、月の出、日光に満ちた日々、曇りの日々、風の日々、そして雨の一日である。病院の職員はゴッホが寝室で作品を描くことは許可していなかったが、インクかチョークで紙にスケッチをすることはでき、後に彼は既存の絵画に基づいて新しい絵画を製作するようになった。

これらの作品を統一する絵画の要素は、右側から描かれている対角線で、これはアルピーユ山脈の緩やかな起伏を表している。21種類あるうちの15種類の絵で、イトスギは麦畑の囲いの向こうに見える。

ゴッホはそのうちの6種の絵で窓からの景色を拡大して描いており、有名な作品は《イトスギのある麦畑》と《星月夜》であるが、いずれもイトスギを画面に大きく描いている。

寝室とゴッホ作品

寝室の窓から見える景色を描いた初期の絵画のひとつに《サン=レミの背後にそびえる山々の風景》があり、現在はコペンハーゲンに保存されている。

ゴッホはこの絵画のためのスケッチを多く作成しており、《嵐のあとの麦畑》は典型的である。この作品が彼のアトリエで制作されたものか、外で描かれたものかは詳しく分かっていない。

この作品について説明した6月9日付の手紙に、ゴッホは野外で数日間活動していたと記している。制作中だったことを言及している2つの風景画のうち、2番目の作品について、ゴッホは彼の妹ウィルに宛てた1889年6月16日付の手紙で説明した。

これは現在プラハに保存されている《緑野》で、1番目の作品は精神病院に滞在していた頃、間違いなく野外で制作した戸外制作である。

現在ニューヨークに保存されている《サン=レミの麦畑》は、戸外制作のためのスケッチである。この2日後、フィンセントは「夜空」を描いたと伝える手紙をテオに送った。

唯一の夜景画・金星

《星月夜》は、寝室の窓からの風景画の数々の中で唯一の夜景画である。6月の初め、フィンセントはテオに手紙を送った。

「今朝、日の出のずっと前に、窓の外に田園地帯が見えた。とても大きな明けの明星のほかには何も見えなかった。」

研究者らによると、1889年の春、プロヴァンスでは夜明けに金星がはっきりと見え、この作品が描かれた時期は金星が最も輝く時期であった。ゆえに、イトスギの木から向かって右側にある最も輝く「星」は、実際は金星である。

月は様式化されており、天文学の記録が示しているように、ゴッホがこの絵を描いた時には月が半月より膨らんだ状態で欠けていた。

描いた当時の月相が、満月が欠けていく時であったとしても、ゴッホが描いた月は天文学的には正しくない。(月についての他の解釈は下記を参照)

ゴッホの寝室からは絶対に見えなかった絵画の要素は村で、サン=レミの村の山腹で描かれたスケッチに基づいている。

ピックヴァンスは、このスケッチは後から描かれたと考えた。ヌエネン時代に描いた様々な作品の融合である、プロヴァンスのものよりもオランダのものに近い教会の尖塔が見られ、ゴッホの最初の「北部の追憶」は、翌年初めに描かれることとなったためだ。一方ハルスカーは、このスケッチの風景画の反転も《星月夜》の為のスケッチだと考えた。

ゴッホによる言及

沢山の手紙を書いたにもかかわらず、ゴッホが《星月夜》について語っていることは僅かである。6月に星空の絵画を描いたと報告したあと、1889年9月20日頃にテオへ宛てた手紙でこの作品について「夜のスケッチ」だと言及しており、その手紙はパリに滞在していた弟へ送った数点の作品に添えられていた。

その数点の作品についてゴッホはこのように述べている。

「総じて、これらの作品の中で少し良いと思うものは、麦畑、山、果樹園、青い丘とオリーブの木、肖像画そして石切場の入口だ。他のものには何も感動しない。」

この「他のもの」には《星月夜》が入っていると思われる。郵送料の節約のため、ゴッホが3点の作品を弟に送る作品に入れないことを決めた時、《星月夜》は送らなかった作品の中に入っていた。最終的に、画家エミール・ベルナール宛ての1889年11月下旬の手紙で、ゴッホは《星月夜》について「失敗」だったと言及した。

象徴主義とゴッホ

ゴッホは、しばしばベルナールと口論した。とりわけポール・ゴーギャンとは、ゴッホが好んだように自然をもとにして描くべきか、ゴーギャンが呼ぶ「抽象」をもとに描くべきかについて口論した。

ゴーギャンの言う「抽象」とは、想像から描く絵画のことで、ド・テテともいう。ベルナールへの手紙でゴッホは、1888年の秋と冬の9週間ゴーギャンと共に暮らした経験を詳しく語っている。

「ゴーギャンがアルルに居た頃、君も知っているように、私は一度か二度、抽象画へと迷い込もうとしていた・・・しかし友よ、あれは気の迷いだった、そしてすぐにれんがの壁に突き当たる・・・それでもまた、私は道に迷い、大きすぎる星たちに手を伸ばそうとしていた—もう一つの失敗だ—それで充分だった。」

ここでゴッホは、《星月夜》の上部中心にある表現主義的な渦を言及している。

テオは1889年10月22日付のフィンセントへの手紙で、これらの絵画の要素に言及している。

「月の輝く村(星月夜)や山々など、新しいキャンバスに何を描こうかと君が心を奪われているものを私は強く感じるが、様式を求めると、ものごとの本当の情緒を失うことになると思う。」

フィンセントは11月初めに返事を出した。

「君はこの前の手紙で、様式を求めることは質を劣らせることになると言ったが、事実、君が気に入るならば、私は様式を求めたいと思う衝動に駆られている。私はより潔く、慎重な線描をしたいのだ。それによって私がベルナールやゴーギャンのようになるのなら、私はそれをどうすることもできない。でも長い目で見れば、君もそれに慣れるだろうと私は信じたい。」

同じ手紙でその後にこう述べている。

「先日送った作品に描いている、長く、曲がりくねったスケッチは、本来そのように描くべきではなかったことはよく分かっている。しかし風景画においては、集まりの絡み合いを表現することを求める素描の様式によって、人はものを一つにまとめることを続けるのだと信じることを、私はあえて君にすすめたい。」

しかし、ゴッホは周期的にゴーギャンやベルナールの実践を擁護したものの、その度に毎回必ず彼らを否定し、自然をもとにして描くという自分の好む方法を続けた。

とりわけクロード・モネなど、彼がパリで出会った印象派の画家たちのように、ファン・ゴッホもまたシリーズで作品を描くことを好んだ。彼はアルルでひまわりのシリーズを描き、サン=レミでイトスギと麦畑のシリーズを描いた。“星月夜”は後者のシリーズと、アルルで描き始めた夜景画の小規模なシリーズに属する。

星空と人の死

1888年2月にアルルに到着するとすぐに、フィンセントはテオに手紙を書いた。

「私は・・・星空の下に佇むイトスギを、あるいはおそらく、実った小麦の上に広がる星空を描かねばならない。ここでの夜は、時にとても美しいのだ。」

同じ週のうちにベルナールにも手紙を書いた。

「星空は私が挑戦したい題材だ。昼間にも、タンポポが光る草地を描いてみたい。」

ゴッホは星たちを地図上の点になぞらえて深く考えた。地球上の旅をする列車が進むように、「人間は星に届くために命の危険を冒すのだ。」。

この時点でゴッホは宗教に幻滅を感じていたが、死後の世界を信じる心は失っていなかったようだ。《ローヌ川の星月夜》を描き終えた後、彼はテオへの手紙で矛盾する感情を語り、宗教が必要だと告白した。

「私は切実に必要としているものがある、言ってしまおうか、宗教だ。だから私は夜外に出て星を描く。」
 
ゴッホは、人は死後異次元に存在するということについて手紙に書き、その次元と夜空を結びつけた。

「それはとても簡単で、今となっては私たちを驚かせ傷つけるような、人生の恐ろしい出来事をよく物語るだろう。生にもうひとつの世界があるのならば、確かにそれは見えないが、しかし人間は死ぬときそこに行く。」

「希望は星にある。」として、ゴッホは描いたが、すぐにこのように指摘した。「地球もまた惑星であり、結果として、星または天体の軌道である。」

そして《星月夜》は「空想的、宗教的な思想への回帰ではない」と単調に述べた。

マイヤー・シャピロの評価

本作について、専門家は数々の評価を下している。

著名な芸術歴史家マイヤー・シャピロは《星月夜》の表現主義的な観点を強調し、この作品が「感情の圧力」のもとで制作された、「宗教的な雰囲気に鼓舞された幻想的な絵画」だと述べた。

シャピロは、この作品の「隠れた意味」は新約聖書ヨハネの黙示録に関係しており、主題についてこのように述べている。

「世の終末を思わせる主題で、出産の痛みに苦しんでいる女性が太陽と月に囲まれ、星の冠をかぶり、その赤ん坊はドラゴンに怯えている。」

(シャピロは“オリーブの木のある風景”において、雲が母親と子供に見えることも公言しており、“星月夜”と同時に制作され、その二点の作品はつながっていると述べている。)

スヴェン・ローフグレンの評価

芸術歴史家のスヴェン・ローフグレンはシャピロの見解を広げ、《星月夜》について「大変な動揺のもとで制作された幻想的な絵画」だと述べている。

ゴッホの精神的な崩壊の間はこの作品が完成しなかったことを言及しつつ、彼は「幻覚を思わせるような絵画の特色と猛烈に表現主義的な外観」について書いた。

ローフグレンはゴッホの「宗教色の強い、来世への憧れ」とウォルト・ホイットマンの詩を比べている。

ローフグレンは《星月夜》を「画家が最後に宇宙に吸い込まれることを象徴した果てしなく表現主義的な絵」だと言い、「永遠への入り口に立っているという絶対に忘れない感覚を与える」絵だと述べている。

ローフグレンは世の終末を思わせる光景を見せる絵画についてのシャピロの「雄弁な解釈」を称賛し、旧約聖書の創世記に記述のある、ジョセフの夢のひとつに出てくる11個の星に言及し、独自の象徴主義者的な説を唱えた。

《星月夜》の絵画要素は「純粋に象徴主義的な用語で視覚化される」と主張し、「イトスギは地中海沿岸の国々では死を意味する木とされている」ことを指摘した。

ローレン・ソスの評価

芸術歴史家のローレン・ソスは《星月夜》の象徴主義的なサブテキストを指摘して、この作品が「偽装した伝統的かつ宗教的な主題」であり「(ファン・ゴッホの)最も深い宗教的な感情が昇華された表象」だと述べている。

称賛していることをゴッホ自身が公言したウジェーヌ・ドラクロワの絵画や、特に初期の画家がキリストの絵画にペルシアンブルーやシトロンイエローを使ったことを引用し、ゴッホが《星月夜》でこれらの色を使ったのはキリストを表現するためだったとソスは立論した。

ソスはシャピロやレーブグレンの聖書に基づいた解釈が、三日月と太陽の要素を組み合わせた解釈に依存していると言って批判している。それはたかが三日月に過ぎず、ゴッホにとって「慰め」を表現する象徴的な意味であるとソスは書いている。

ソスはゴッホが弟へ向けて言った、《星月夜》は「構成の視点から生まれた誇張である」という発言をもとに、この作品が「象徴の合成物」であるという論を深める。

しかし、ゴッホが「配置」を「構図」の同義語として使っていたかどうかは確かではない。ゴッホは《星月夜》を含めた3つの絵画についてこのように語っている。

「月の出や夜の印象と同様に、山脈を背景にして白い雲の下に見えるオリーブの木々、これらは配置という視点からの誇張だ。輪郭線が古代の木版画のそれのように歪んでいる。」

最初の二つの絵画は、主題に対しての写実的で合成ではない考え方として広く認められている。3つの作品に共通するのは、テオが言及した誇張された色と筆遣いである。これはテオが《星月夜》について、「様式を追求することでものごとの本当の感情が失われる」とゴッホを批判した際に言及したことだった。

この頃ゴッホは「配置」という言葉を二つの機会で、ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーが利用したのと同じように色への言及に利用した。

1889年1月のゴーギャンへの手紙でゴッホはこのように書いた。

「色の配置として言えることは、混じりけのないオレンジへと動いてゆく赤は、その色素まで強まり生き生きとした色合いを持ち、ピンクになりオリーブ色やビリジアンと結ばれることだ。印象派的な色の配置として、これ以上のものを考え出したことはない。」

ゴッホがここで言及しているのは《ルーラン婦人ゆりかごを揺らす女》で、これはオーガスティン・ルーランの写実的な肖像画であり、背景には想像上の花が描かれている。

そしてベルナールへ宛てた1889年11月下旬の手紙にはこう書いている。

「しかし、ゴーギャンが持っているものなど、あなたの作品を私がもう一度見たいと思っていることはあなたには充分伝わるだろう。牧草地を歩いているブルターニュの婦人たち、とても美しい配置、素朴に識別された色。ああ、あなたはそれを何かとーーこの言葉を言うべきであろうかーー人工的なもの、影響されたものと引き換えている。」

アルバート・ボイムの評価

芸術歴史家のアルバート・ボイムが《星月夜》についての研究を発表したのは、象徴主義的な解釈を考慮してのことだ。上述したように、この絵画がゴッホの寝室の窓からの地形上の要素のみならず、金星そして牡羊座の二つの天体の要素を描いていることをボイムは立証している。

ゴッホは初めは凸状の月を描こうとしたが、三日月の「より伝統的な表象に戻った」のだとボイムは示し、最終的に描かれた三日月の周りの明るい光環は元来の凸状の月の名残であると立論している。

ボイムは、ゴッホがヴィクトル・ユーゴーやジュール・ヴェルヌの執筆に関心を持ったことで星や惑星での来世を信じるようになった可能性を物語っている。ボイムはまた、ゴッホの生涯のうちに広く公表された天文学の発展についても詳細に議論している。

ゴッホは天文学者カミーユ・フラマリオンについて手紙の中で言及したことは無かったものの、フラマリオンの挿絵入りの著名な出版について認識していたことは間違いないとボイムは考えている。

その出版物には、望遠鏡で観察され撮影された渦状の星雲(当時は銀河がこのように呼ばれていた)も掲載されていた。ボイムは《星月夜》に描かれている夜空の中央の渦状のものが、渦状銀河あるいは彗星を表していると解釈する。

渦状銀河や彗星の写真は大衆向けのメディアでも紹介されていた。《星月夜》において唯一非現実的な要素は、村と、空に浮かぶ渦であるとボイムは主張する。これらの渦は、活動的で生命のある場所としてゴッホが宇宙を理解していたことを示している。

チャールズ・A・ホイットニーの評価

ハーバード大学の天文学者チャールズ・A・ホイットニーはボイムと同時代に、しかし独立して自身の“星月夜”の天文学的な研究を行った(ボイムは生涯の殆どをカリフォルニア大学ロサンゼルス校で過ごした)。

ホイットニーは牡羊座に関してはボイムと同じ確信は持っていないが、絵画が制作された頃のプロヴァンスで金星が見えていたことに関してはボイムと同意見である。

ホイットニーは、最初の研究の功績がアングロアイリッシュの天文学者、ロス卿ウィリアム・パーソンズにあることを前置きしつつ、夜空に渦巻銀河の描写も見ている。ロス卿ウィリアム・パーソンズの研究はフラマリオンによって再現された。

ホイットニーは、夜空に浮かぶ渦はミストラルを再現した風を表している可能性があると立論する。プロヴェンスで過ごした27か月の間、ゴッホはミストラルに深く影響された。(これはゴッホの最初の精神の崩壊kを引き起こしたミストラルで、ゴッホが精神病院に入院した後、“星月夜”を描いてからひと月も経たない1889年7月のことだった。)

ボイムは、地平線のすぐ上の薄く青い影が最初の朝の光を表していると論じている。

描かれている村は、ゴッホのオランダの故郷の回想であるか、あるいはサン=レミの町の素描に基づいているなど、様々に解釈されている。いづれにしても、それは病室の窓からは見えない架空の要素である。

ゴッホとイトスギ

イトスギの木はヨーロッパの国々では長い間死を意味してきたが、ゴッホが《星月夜》に象徴的な意味を持たせることを意図したかどうかは、議論の主題である。

「威厳のあるオーク」あるいは「涙を流す柳」と言うのと変わらない可能性はあるが、1888年4月のベルナールへの手紙で、ゴッホは「葬式のイトスギ」に言及した。

《星月夜》を描いた一週間後、ゴッホは弟テオに手紙を書いた。

「私はいつもイトスギのことで頭がいっぱいだ。未だにイトスギは私が想像する働きをしておらず、それに私は驚かされるので、たとえばひまわりを描くキャンバスのようにしてイトスギを利用したい。」

同じ手紙で「暗い緑色をしているあの難しい影のイトスギの2つのスケッチ」について言及した。これらの発言は、ゴッホがイトスギに興味を持っていた理由はその象徴的な意味よりも、表面的な特質のためだということを示している。

シャピロは、絵画に登場するイトスギについて「奮闘する人間の漠然とした象徴」だと言及している。

ボイムはイトスギのことを「正当ではない道筋を通して神を求めるゴッホの奮闘と、象徴的に相当するもの」だと呼ぶ。

芸術歴史家のボイジェック・ジラット・ワシウティンスキーは、ゴッホにとってイトスギは「天国と地上の間を連結」させる「素朴で自然なオベリスクの役目を果たす」と述べている。(評論家の中には一本の木を見る者と、二本以上の木を見る者もいる。)

ローフグレンは「地中海沿岸の国々ではイトスギは死を意味する木である」と読者に対して念を押している。

ロナルド・ピックヴァンス

芸術歴史家のロナルド・ピックヴァンスは「独立したモチーフのその恣意的なコラージュ」によって、“星月夜”は「明白に『抽象』のラベルを貼られている」[72] と述べている。ゴッホの寝室から見て東側にイトスギは見えなかったとピックヴァンスは主張し、村や夜空に浮かぶ渦と同様に、イトスギをゴッホの想像の産物だとしている。

ボイムとジラット・ワシウティンスキーは、東側にかつてはイトスギが見えていたと主張する。

ネイファーとスミス

ゴッホの伝記作家スティーブン・ネイファーとグレゴリー・ホワイト・スミスは、部屋の窓からの眺めを描いた作品のうち数点を描く際にゴッホが景色を「圧縮」したことについて同意し、そのことにより、明けの明星を題材にした絵画の制作にゴッホが圧縮を用いることが判断できる。そのような深みの圧縮は惑星の輝きを高める役割を果たしている。

《星月夜》が「抽象」であるために、ゴッホがこの作品を失敗だと言うとき、「星を大きく描きすぎた」ことに失敗の原因をおく。

この作品を幻想と呼ぶことに慎重なネイファーとスミスは、ゴッホの精神的な疾患の観点から《星月夜》を議論する。

彼らはこの疾患を一時的な耳たぶの癲癇症あるいは潜在的な癲癇症と見なしている。

「古代から知られているような、手足がけいれんを起こし体が衰弱する種類のものではなく(時折‘倒れる病気’と呼ばれた)、精神的な癲癇症だ。心の停止、つまり、脳内ではっきりと、完全にそれ自身を示し、奇妙で劇的な行動を鼓舞する、思考、認識、理性そして感情、これらの崩壊である。発作の症状は脳内での電気的な衝動の爆発に似ていた」。

ゴッホは7か月後の1889年7月に、2度目の発作を起こした。ネイファーとスミスは、この発作の原因はゴッホが《星月夜》を描いた時、想像に熱中していて「防御が壊れてしまった」ことにあったと論じている。

6月中旬のその日、「きわめて現実的な状態」で、他のすべての絵画の要素を正しい場所に置き、彼らが言う「普通の目では地球上の誰も見たことが無いような夜空」を描き、ゴッホは星を描くことに身を投じた。

闇夜の明るさ

当時のゴッホは友人に充てた手紙の中で「夜空の星をみているといつも夢見心地になる。」と述べており夜空に特別な感情をよせていたようである。

闇夜であるのにどこか明るいのはそんな彼の創作意欲が現れたものであろうと言われている。

影響

本作品は独特の描画からゴッホの晩年の代表作として名高い。

現代においても感化された者が多く、フランス人作曲家アンリ・デュティユーの管弦楽曲「音色、空間、運動 」や2011年公開のウディ・アレン監督の映画”ミッドナイト・イン・パリ”のポスターに起用されたりと根強い人気がありあらゆるアート作品に影響を与えている。

来歴

ゴッホは当初《星月夜》を自分で持っていたが、後に1889年9月28日、他の9点か10点の作品と共にこの作品をテオに送った。

テオは1891年1月、フィンセントの死去から6か月も経たないうちに亡くなった。テオの未亡人ジョーがその後ゴッホの遺産の管理人となった。

彼女は1900年、パリに居た詩人ジュリアン・レクラークにこの作品を売り、それを彼は1901年、ゴーギャンの古い友人エミール・シューフェネッカーに売った。その後ジョーがシューフェネッカーからこの作品を買って手元に戻し、1906年にロッテルダムのオルデンジール美術館に売った。

1906年から1938年の間この作品はロッテルダム在住のジョージエット・P・ファン・ストークが所有し、その後ファン・ストークがパリとニューヨーク在住のポール・ローゼンバーグに売った。

ニューヨーク近代美術館がこの絵画を入手したのは1941年、ローゼンバーグを通してだった。

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基本情報・編集情報

  • 画家フィンセント・ファン・ゴッホ
  • 作品名星月夜(糸杉と村)
  • 英語名未記載
  • 分類絵画
  • 制作年1889年 - 1889年
  • 製作国フランス
  • 所蔵ニューヨーク近代美術館
  • 種類油彩
  • 高さ74cm
  • 横幅92cm
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